帝国劇場にも導入された優れた機能!NMRパイプテクター®-NMRPT-

日本の文化・芸術の象徴ともいえる帝国劇場

イメージ画像 by Alessia Cocconi on Unsplash

東京・丸の内、日比谷通りに面して位置し、わが国初の本格的西洋式劇場として1911(明治44)年に開場された帝国劇場。

「帝劇」の通称で知られる劇場設立の構想が具現化した背景には、当時さまざまな分野に影響していた欧化主義のひとつである演劇改良運動があり、発起人の中心として次期一万円札の顔となる渋沢栄一も名を連ねていました。

設計者は横河民輔、ルネサンス風のフランス様式を模した造りで、全階椅子席、ロビーや食堂、喫茶室も備えており、江戸時代からの「歌舞伎小屋」イメージを一新するものでした。

歌舞伎を上演する一方で翻訳劇や創作劇を並行して取り上げ、また帝国劇場付属技芸学校を設立して女優の養成にも取り組みました。

さらに、イタリア人音楽家ローシーを招いてのオペラ・バレエの上演、シェークスピアをはじめとする外国劇とオペラを続々と上演するなど、まさに芸術の国際化が花開いていきました。

「今日は帝劇、明日は三越」という当時の広告キャッチコピーは流行語にもなり、消費時代の幕開けを告げるものとなりました。

帝国劇場の悲運

しかし、そんな帝国劇場を1923(大正12)年、関東大震災が襲います。

高い耐震性と防火性を誇った帝国劇場は激しい揺れにも倒壊を免れ、震災発生当初は火災の被害もなかったのですが、数時間後に警視庁方面から出た尋常ではない火災の飛来を受け、悲運にも外郭を残して焼け落ちてしまいました。

それでも横河民輔の改修によって震災の翌年に再開され、「大正帝劇」として再び賑わいを見せた帝国劇場は、その後、不況による経営難や太平洋戦争中の閉鎖などの局面を経て1964(昭和39)年、都市高層化の波で取り壊されます。

その間、演劇興行から離れて洋画の封切り館として親しまれた時期もあり、大型映画シネラマの日本初公開も帝国劇場でした。

1966(昭和41)年に完成した現在の帝国劇場は、複合ビルの一部の劇場として生まれ変わり、開場記念公演の『風と共に去りぬ』を6カ月のロングランでヒットさせるなど、その後も現在に至るまでミュージカルや大型娯楽劇を柱に日本の文化・芸術の中心的劇場となっています。

とくにミュージカルの公演が盛んとなり、『屋根の上のヴァイオリン弾き』『マイ・フェア・レディ』『王様と私』『ラ・マンチャの男』といったブロードウェーの名作ミュージカルの上演を続けるとともに、『レ・ミゼラブル』『ミス・サイゴン』などのハイテクを駆使した演出が話題の大型ミュージカルも上演してきて、「日本ミュージカルの聖地」とも呼ばれています。


さて、そんな帝国劇場にも年月が流れ、築34年を迎えた2000(平成12)年、建物の配管の腐食を防止し、更生させる目的からNMRパイプテクター®が導入されました。

次回は帝国劇場の配管事情について詳しくお話し致します!